ディストピア TOKYO

4月1日より首都圏の駅は、全面禁煙に。

by on 3月.21, 2009, under タウン情報, 豆知識

JR東日本
http://www.jreast.co.jp/nosmoking/index.html

『・・・喫煙所がホーム端にあっても、列車をお待ちのお客さまの列にタバコの煙が流れていったり、列車が停車した際に、喫煙所のタバコの煙が車内に流れていったりすることもあり、駅での受動喫煙防止の徹底を望まれるお客さまの声が数多く寄せられておりました。またあわせまして昨今の社会的な禁煙志向の高まりという状況等も踏まえ、弊社として、受動喫煙の更なる防止を進めていくために、2009年4月1日より特にお客さまのご利用が多い首都圏の一定エリアにおいて、ホームの喫煙所を撤去し「全面禁煙」を実施することにいたしました。』

たまたまですか?


3 Comments for this entry

  • じゃむ

    駅内での禁煙運動はヨーロッパの各地で既に実行されています。
    また、様々な国でカフェやレストランそれから公共の場といった場所の室内では禁煙という所が増えています。
    一気に喫煙となったその頃こそ大きく話題になりますが、その後は大騒ぎなどは起きていません。
    「やっぱり室内でも吸わせろ」などのデモは起きていないのです。
    今まで喫煙を、ずっと当たり前としてきた時代が古くさえ感じられます。
    車のシートベルトは昔はしていなくても、誰も何も言わないし、何も心配しないし、シートベルトしていなかったから事故死したなどとは言っても、それまで・・・という時代だった。
    後部座席もシートベルトしていないと、罰金という国があります。
    そういうことも知らずに何でも「反対」というのは実は、ちょっと遅れた考え方かもしれません。
    公共の場でパフォーマンスなどを見たり、実行したり出来なくなるのは非常に許しが足り自由の損害だと思いますが、「健康」「命」に関わる話題である問題と同レベルで「反対」というのは、どうかと思われます。

  • potlatch

    じゃむ様

     貴重なお意見、ありがとうございます。
     ご主張、以下の点でとても共感いたします。

    「駅内での禁煙運動はヨーロッパの各地で既に実行されています。」
    「今まで喫煙を、ずっと当たり前としてきた時代が古くさえ感じられます。」
      =喫煙者を犯罪者予備軍あつかいするというひどい条例でもつくらないかぎり、完全なる分煙対策をしない、人権意識の低い事業者・日本社会

    「何でも「反対」というのは実は、ちょっと遅れた考え方かもしれません。」
      =何でも反対し、犯罪にこじつけて規制することが「公共の福祉」だと思っている有識者会議

    「公共の場でパフォーマンスなどを見たり、実行したり出来なくなるのは非常に許しが足り自由の損害だと思いますが、「健康」「命」に関わる話題である問題と同レベルで「反対」というのは、どうかと思われます。」
      =「健康」「命」に関わる重大な問題であるにもかかわらず、煙害をマナーの問題にすりかえ、治安管理というお上の自己満足を満たすための手段に矮小化する行政

     私はタバコは吸いませんが、嫌煙家が「喫煙者の匂いだけでも迷惑」とか言ってるのをきくといかがなものかと思います。不快ではあるが、匂いだけでは健康被害とはいえませんから。

     じゃむさんのご意見について、1点だけ。

     「表現の自由」規制は、実は「健康」や「命」にかかわる問題だと私は思います。
     路上で出会い、路上で表現し、路上で助けあうことで何とか生きつないでいる人たちがたくさんいます。

     これもたまたまでしょうか? 

    ■炊き出しに路上生活者が長い列 苦情で中止、苦渋の決断
      (朝日新聞 2009年3月13日)
    http://www.asahi.com/national/update/0313/TKY200903130167.html

    『・・・不況の深刻化とともに、路上生活者のための炊き出しに並ぶ行列が伸びている。そんな中、隅田川にかかる駒形橋(東京都墨田区、台東区)では、近隣住民からの苦情を受けて3月末で炊き出しが中止になる。ベテランのボランティア団体が12年続けてきた活動だけに、ほかの団体にも不安が広がっている。

     5日午後2時、墨田区側の駒形橋近くの「隅田川テラス」と呼ばれる川沿いの遊歩道に長い列ができた。NPO法人「山友会」が行う毎週木曜の炊き出しだ。パック詰めのご飯を求めて349人が集まった。

     並んでいた男性(71)が、「炊き出しスケジュール」と書いた紙を見せてくれた。曜日ごとに各団体の炊き出しの場所を支援団体がまとめたものだ。東京の東部地域の木曜の欄は「14時〜隅田川・駒形橋」の1カ所だけ。浅草の商店街で路上生活を送るこの男性は「ここがなくなれば木曜は腹をすかしたまま寝てしのぐしかない」と肩を落とす。』

    『■周辺の団体にも動揺

     「あれだけ手際よくやっていた山友会がダメなのか」。駒形橋に近い蔵前(台東区)で毎週日曜に炊き出しをしている浅草聖ヨハネ教会の牧師、下条裕章さん(49)はショックを受けている。

     99年ごろから教会の敷地内で「日曜給食」として炊き出しをしている。01年秋には50〜60人くらいだったのが今では300〜400人。最も多い日には500人を超える。』

    『・・・「近隣の方のためには炊き出しを一切やめるのが一番だが、これだけの人が困っているのも現状。どうするべきなのか。ずっと悩みながらやっている」と浅草聖ヨハネ教会の下条さんは話している。』

  • じゃむ

    potlatch様

    こんにちは。
    とっても丁寧なお返事に感激しております。
    ありがとうございます。

    >  「表現の自由」規制は、実は「健康」や「命」にかかわる問題だと私は思います。
     路上で出会い、路上で表現し、路上で助けあうことで何とか生きつないでいる人たちがたくさんいます。

    potlatchさん、そうなんですよ、そうなんですが、実は「表現の自由」規制は、実は「健康」や「命」にかかわる問題だと思っている人は沢山いると私も信じたいのですが、私の周りを見てみると、案外そういう考えをしている人、本気でしている人というのは「沢山いる」とは言い難いのです。
    「表現」は健康や命に関わらないというのは、たとえば、こんなことです。
    一人の美術家がいるとします。毎日製作に時間を費やしている美術家もいますが、この人は、ある時期は寝る暇も惜しく制作をして、ある時期は昼間からビールを飲んで、散歩して、タバコぷかぷかして時間を過ごし、思い立ってはメモ帳に何やら書いてみたり。特に製作という表現をしないで、ある時期を過ごすのです。
    こういう例では、「表現」をしないでも美術家は生きているのです。ところが、エネルギーが爆発するかのように製作の意欲が生まれた時には誰にも止められず、止められたとしたら作家は死んでしまう勢いであります。こういう時は、「表現」の自由を奪われると美術家の命に関わるのです。
    しかし、人間というのは普通に「寝食」をする環境が整っていれば死ぬことなしに生活をすることが出来るのです。
    「表現」という言葉を「アート」「展覧会」「美術館」「ギャラリー」にしてもいいでしょう。これらは、別に無くとも人間は死なないのです。それが現実です。
    「別に無くとも人間は死なない」けど、だけれども「表現の自由」というものを「人間にとって大事な尊重されるべきこと」として主張していくのが表現者だと思うのです。

    ■炊き出しに路上生活者が長い列 苦情で中止、苦渋の決断
      (朝日新聞 2009年3月13日)

    この記事には驚きました。ショックです。
    まさに、「命」に関わる問題ですよね。
    しかし、ここでの話題での問題は「表現の自由」ではなく、「社会奉仕」や「公共の場」という問題ではないでしょうか。

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