ディストピア TOKYO

『善なる者』が支配する街の窒息

by on 3月.23, 2009, under パブコメ

『善なる者』が支配する街の窒息 

 僕は山手線某駅近辺に住んでいるのですが、駅への行き帰り、橋の真ん中や公園などに黄色いジャンパーを着た老人を見かけるとぞっとします。彼らの腕や背中には誇らしげに「路上喫煙撲滅」と言ったスローガンが掲げられており、彼らは我が物顔でそこら中を歩き回っては、まるで自分は正義の味方、月光仮面かアンパ ンマンであるかのように、「路上喫煙はおやめください」と魚類の目をして言うのです。その表情には他者(自分の信ずる思想・団体に所属しない者達)に対し一切の妥協、理解をする余地が残されていません。彼らにとって路上喫煙者は「悪」であり、排除すべき者でしかないのです。路上喫煙者も人間であり、彼らにも彼らの想 いや思想があるのと同様、路上喫煙防止団体にもそれらがあるのは間違いないのですが、彼らは自分たちを「善なる者」、つまり「正義」であると強く信じて疑わない点において不気味であり、危険極まりない存在であると僕は危惧するわけです。

 この問題の孕む危険性は、愛煙家と嫌煙家の不毛な争いに関するということによって軽視してよいものではなく、例えば街を見張る市民パトロール、小学生の登下校を監視する保護者団体、等々が同様に孕んでいる危険性であると思います。全て「善なる者」であると自身を強く信じて疑わない者、すなわち正義の味方は危 険な存在であるということを強調しておきます。 

 例えば僕がよく考えることに、アンパンマンというアニメが持つ人間の悲劇性というものがあります。アンパンマンの世界ではバイキンマンは悪です。彼は何とかして、村のみんなとコミュニケーションを図ろうとします。それは殆どの場合単なる嫌がらせに過ぎないのですが、それは彼なりの自己アピールであり、彼はつ まり構ってほしくていたずらをする少年であるのです。ここで登場するアンパンマンはいわば学級委員長かなんかです。彼は一方的に(バイキンマンも確かに一方的なのですが)バイキンマンを悪と決め付け、対話を試みることなく、最終的にアンパンチをかましてめでたしめでたし、ということになるのです。そこでの彼ら(村の みんな)の安堵の表情には、何か後ろめたいものがないでしょうか。邪魔者を、嫌な奴を排除することによって得られる平穏というのは、「自分たちは正義である」、或いは「自分たちは良識ある、常識人である」というコンセンサスによって辛うじて支えられるものであり、ともすれば自分たちの平穏が何らかの犠牲によって成り 立っているということに気付くことによって脆く破綻する可能性を秘めているものであり、本来そうあるべきなのです。ただ一人、アンパンマンを除いて。彼には「良いことをした」という満足感しかないのです。何故なら彼は「正義」なのですから。ここには、最も物が見えていない「アンパンマン」によって大勢の人は自己欺瞞 を孕んだ平穏を与えられ、誰もかえりみてはいけない「バイキンマン」、つまり「見てはいけない存在」という、社会の生贄となった存在だけが真っ直ぐに物を見つめているという悲劇性が存在します。

 確かにこの理論はいささか飛躍しているかもしれません。しかしバイキンマンを「社会不適合者」であると比喩する時、この問題は街中の至るところに見られはしないでしょうか。差別的な意味ではなく、歴史的にみて「社会の澱」とされてきた人種は確かにいます。乞食、娼婦、薬物依存者、アル中、オカマ、ヤクザ、ぺ てん師、香具師、大道芸人、不法入国者、etc… 差別してきたのは誰か?我々です。僕がここでこの言葉を発したところで、その責任は僕にのみあるでしょうか?否であると僕は思います。彼ら「社会の澱」の存在は、誰に責任があるのでしょうか。彼らのみでしょうか。見て見ぬふりをする中流階級?政治家?どれも違うでしょ う。彼らの存在は広く、「社会」が生んだものなのです。凶悪な犯罪者も、偉い発明家も、みんな昔子供だったのです。彼らの人生の責任は、彼らのみにあるものでしょうか。「社会」というワインが熟成するために底に沈んでいった「澱」は、上質なワインができるためのいわば生贄なのです。

 問題は、いかに排除するかではなく、いかに共存するかです。「正しさ」とは何でしょうか?休日に犬を連れて川沿いを散歩することでしょうか。街の一角に三脚を立てて長時間露光することでしょうか。その行為を不審な目で監視することでしょうか。酒を飲みながら街を散歩するのが趣味の人だっているでしょう。街で スキップしたくなる瞬間がある人だっているでしょう。街の一角でふと立ち止まり、その光景を絵に描いてみる人だっているでしょう。黙黙と目を伏せて通り過ぎるのが街の歩き方でしょうか?そのような「正しさ」に逸脱してしまう人には黄色いジャンパーの人が集まってきます。先に述べた社会不適合者は、街にしか住めない。 街の優しい暗がりにしか、彼らの居場所はないんです。「街を綺麗で、爽やかに」。そりゃ、綺麗で爽やかな人はいいかも知れないけれど、綺麗で爽やかでない人々はどこにいけばいいんです?どこもかしこもトイレの消臭剤の匂いがする、除菌され、抗菌された街に、「人間」という美しくも醜いもの、臭いもの、「正しくないも の」は住めない。人間とは本来複雑に善悪、愛憎のドロドロと混ざったものです。ピカピカの「綺麗で爽やか」な街を堂々と歩けるような、「ご立派」な人がもしいるのなら、一度ご覧になりたいものです。今一度、「水清ければ魚棲まず」という格言の真なる意味、価値を探るべきではないでしょうか。

 人間は記号ではない。人間は人間です。「善」は存在せず、「悪」もまた存在しない。人間の住み家はどこまでも広い、「グレーゾーン」なのです。そのグレーゾーンを撤廃しようとする街作りは、きっと破綻する。

 登下校中の子供を黄色いジャンパーをつけて見守る老人は、そのジャンパーを脱いだ瞬間に、「不審者」と認識され、ひいては「犯罪者予備軍」となるのです。この変化は可逆的です。人間を記号によって認識する行為の危険性がここにはあります。

 世界は「神」に許可を与えられ、権力を得た、「善なる者」に支配される。街を歩く楽しみも根こそぎ奪われ、僕達は街の片隅に腰掛けてのんびりすることも、想像力を遊ばせることもできない。こんな息苦しい街に、誰がした。

 (匿名希望)


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