ディストピア TOKYO

必要なのは「街の安全をいかにして守るか」よりも、「街の安全とは、誰にとっての、どんなものであるか」という議論ではないでしょうか。

by on 3月.20, 2009, under パブコメ

 『「繁華街等における安全・安心の確保に関する考え方」を読みましたが、まず第一に、現行の法規で取り締まれないほど繁華街の「安全・安心」が損なわれているかどうかが疑問です。

 たとえば客引きについて言えば、新宿・歌舞伎町でさえここ数年に大規模な取締を行いえています。それは環境美化や迷惑行為、不法就労などについても同様であって、殊更にこれ以上の条例や法規を作るほどに危険な状態になっているようには思えません。

 近年の都市空間の管理は過去よりも徹底されています。そのような流れにおいてこの「考え方」は、管理が進めば進むほどより徹底した管理を求めるようになるという、悪い連鎖におちいった考え方であるように思えてなりません。しかもその管理のしかたは、常にトップダウン式のものです。「考え方」では地域社会の人々を啓発するという主旨がありますが、そこで述べられていることは、地域社会の担い手の自主的・自治的な活動をより広く認めるということではなく、地域のより広範な人々を行政活動に動員していこうとすることでしかない。

 ゆえに、「考え方」で提起されている行動計画、特にその条例化は、おおいに問題があるように思えます。いま必要な議論は、「街の安全をいかにして守るか」よりも、「街の安全とは、誰にとっての、どんなものであるか」という議論ではないでしょうか。そうした議論が発展せず、街の「安全・安心」が分かりきったお題目として振り回されるとき、その街に生きる人々の自発性や自由はますます押し込められ、そうした人々が「安全・安心」を自ら作っていく能力を損ない、長期的にはまさにその「安全・安心」そのものを低下させるのではと危惧します。

 最後に一言。大学の人間は地域社会の一員として人材面で参加・協力すべきと書いてありますが、「地域社会の一員として」協力するということがどういうことなのか、東大の都市工学の先生はお考えになったことがあるのでしょうか。地域の安全とはなにか、それは誰のためのものかについて、わかりやすい言葉で公共に議論を開いていくことこそが、大学の人間が「地域社会の一員として」すべきことではないのでしょうか。果たして、形式的で意味が曖昧な官僚文書を作ったり、トップダウン式に街のコントロールの方式や計画を作ったり、「安全・安心」という言葉をその意味も追及せずに振り回したりすることが、「地域社会の一員として」の貢献と言えるのでしょうか。それは、東大の教授というお偉い先生が、知識に乏しい一般大衆のためになるものを上から与えてやろうという、非常に非民主的なやりかたでしかないと思います。そのようなしかたでは、上にも述べたとおり、「安全・安心」を形骸化させ、長期的にはその「安全・安心」そのものを損なってしまうように思えてなりません。』

(学生)


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